本福寺は、山号を夕陽山とする、浄土真宗本願寺派(西本願寺)に属する寺院です。この寺の開基は、鎌倉時代後期の正和年間に滋賀県野洲郡御上神社の神職であった善道が、本願寺第三代門主覚如上人の御教化を受け、浄土真宗に帰依し、念仏の道場を開いたこととされています。
その後を継いだ第二世覚念の時代には禅宗に傾倒しましたが、第三世法住の時代に再び本願寺門下寺院となりました。
法住が蓮如上人の片腕として活躍した時代には、幾度となく比叡山からの迫害を受け、上人にとっても堅田で過ごされたひと時は、苦難の時代であったと思われます。
その後、第五世明宗の時代には本願寺から三度の破門を受け、第六世明誓と共に寺院壊滅の危機にまで至った苦しい時代を過ごしました。
1397 | 応永4 | 第三世法住誕生 |
1415 | 応永22 | 本願寺第八世蓮如上人誕生 |
1460 | 寛正元 | 蓮如上人から方便法身尊号を授けられる |
1461 | 寛正2 | 蓮如上人から親鸞聖人影像(二尊像)を授けられる |
1465 | 寛正6 | 寛正の法難。法住馳せ参じる |
1467 | 応仁元 | 本願寺所有の親鸞聖人影像、本福寺へ移される |
蓮如上人、本福寺にて報恩講を勤める | ||
1468 | 応仁2 | 延暦寺衆徒、堅田を襲撃する(堅田大責) |
1471 | 文明3 | 蓮如上人、越前吉崎に坊舎を建てる |
1479 | 文明11 | 法住往生する |
1480 | 文明12 | 蓮如上人、山科に本願寺を再建 |
1491 | 延徳3 | 本福寺焼失。再建費に蓮如上人より20貫を寄進される |
1499 | 明応8 | 蓮如上人往生 |
1513 | 永正10 | このころから蓮淳、本福寺明宗をにくむ |
1518 | 永正15 | 明宗、蓮淳の中傷により勘気を受ける(以後、3度に渡り勘気を受ける) |
1538 | 天文7 | 明宗、跡書を記す |
1634 | 寛永11 | 明芸、内陣官を許される |
1685 | 貞享2 | 明式、京都に芭蕉を訪ね教えを受け千那と号する |
1690 | 元禄3 | 秋、芭蕉、本福寺にて病む |
1713 | 正徳3 | 千那、『白馬紀行』を出版する |
1923 | 大正12 | 法住、立教開宗700年にあたり、本願寺より表彰される |
1928 | 昭和 3 | 農繁期に託児所を開設し、次いで常設託児所とする |
1954 | 昭和29 | 本堂、蓮如廟所、火災のため焼失する |
1962 | 昭和37 | 本堂落慶 |
1995 | 平成7 | 現在の本堂落成 |
蓮如上人と法住
第三世住職法住は、比叡山の僧兵から迫害を受けた蓮如上人の命をよく護り、念仏繁盛に努めました。
法住が蓮如上人から授かり、比叡山の根本中堂に掲げたと言われる十字名号(「帰命尽十方無碍光如来」)をよく見ると、縦と横とに折りたたまれた跡が残っています。また、本来あったであろう、上下の軸木は切り落されてありません。その姿からは、大きな名号を細かく畳み、懐に収め、険しい山道を命がけで持ち帰ったと言われる法住師のご苦労を想像することができます。
1468(応仁2)年に比叡山延暦寺によって攻め入られた堅田は焼け野原となり、堅田門徒は沖島に逃げ延びることとなります。(堅田大責)
その後、礼銭・礼物を支払うことによってようやく還住を許されますが、この様な度重なる困難を乗り越えて、今こうしてこの堅田の地には、変わることなくお念仏の声が高らかに響いています。
中世の堅田
堅田は下鴨神社の御厨となり、湖上の自由通行権を得ていました。この特権を背景に漁業・交易・通行の各権に力を持った堅田衆は、湖上の航海を害する海賊を防ぐため、上乗として乗船して安全をはかり、その謝礼として金品を得ました。また、足利尊氏から水陸の関務を許され、運送の十分の一を収納する権利を認められていたと言われ、当時の堅田衆は政治的・経済的にも有力であったと考えられます。
その繁栄の基盤として、堅田には早くから自治的組織が形成され、殿原衆や全人衆をはじめとした階層社会が成立していました。また、村掟が制定され、寄り合いでの話し合いにより物事が決められました。庄の指導的立場にあった殿原衆に対し、全人衆は一般の農民・漁夫・舟乗・商工業者達で、浄土真宗を信じ、本福寺を中心に結集していました。
この階層社会も応仁元年(1468)の堅田大責めを契機に解消へと向かいますが、その後、堅田は全住人をあげて共同体作りを目指します。そこには、同朋思想を基本理念とする真宗門徒が中心的役割を果たしたと言われています。
しかし、この殿原衆と全人衆の協調関係も、やがて織田信長によって破られることとなります。
芭蕉と千那
松尾芭蕉が大津に訪れたきっかけは、本福寺第11世明式の案内があったからであると言われています。明式は、その後芭蕉の弟子となり、貞享2年(1685)に「千那」の俳号を授かります。
以来、芭蕉はしばしば堅田を訪れ、人々との親交を深め、多くの句を残しました。これまで三度本福寺を訪れたうち、元禄三年(1690)の秋、千那を訪ねた時には風邪をひき、しばらく療養の為滞在しました。
病雁の夜寒に落ちて旅寝かな
この句は、その際に芭蕉が詠んだもので、現在は本堂裏の庭園に直筆の句碑として残っています。
後に千那は、親鸞聖人の遺跡巡拝と芭蕉の足跡を求め旅立ち、江戸・奥羽・信州等諸国を三年に渡り巡歴し、『白馬紀行』を完成させました。